「老害」とは何か?

「老害」という言葉は、「高齢者に多い問題」というイメージで語られることが多い。しかし、私はその捉え方には違和感がある。老害とは年齢によって生まれるものではなく、その人がもともと持っていた考え方や姿勢が、修正されないまま積み重なった結果ではないだろうか。

若い頃から、自分の考えだけが正しいと思い込み、相手の立場や価値観、経験を想像できない、あるいは想像しようとしない人はいる。他人の意見に耳を貸さず、自分の基準だけで相手を判断し、自分の価値観を押し付ける。しかし、その段階では「まだ若いから」「経験不足だから」「これから成長するだろう」という前提で暗黙のうちに許容されることが多い。いわば「幼害」と呼べる状態である。

その未熟さが改善されないまま年齢を重ねれば、今度は「老害」と呼ばれる。つまり、老害は年齢によって生まれるものではなく、若い頃から持っていた問題が修正されず、長年積み重なった結果なのである。幼害と老害は別々の現象ではなく、一つの連続した過程に過ぎない。

そう考えると、「老害」という言葉は少し誤解を招く。あたかも高齢者だけの問題であるかのように使われがちだが、実際には誰もが持ち得る資質が、長い年月を経て表面化しただけとも言える。

逆に、高齢者でも柔軟に新しい価値観を受け入れ、若い世代から学ぼうとする人は数多くいる。そのような人は決して老害とは呼ばれない。一方で、若くても自分の考えを押し付け、異なる価値観を認めようとしない人もいる。その違いは年齢ではなく、人としての姿勢にある。

私は、老害と幼害の本質は共通していると考えている。それは、相手の立場・価値観・経験を想像できない、あるいは想像しようとしないこと。そして、自分の価値観だけを正しいものとして他人に押し付けることだ。問題なのは年齢ではなく、この姿勢や能力の欠如なのである。

さらに言えば、このような害を周囲にまき散らす人には共通点があるように思う。それは、「自分は正しい」「自分は理解できている」「自分の判断は間違っていない」という根拠の薄い自信や万能感を持っていることだ。自分を疑うことができないため、相手を理解しようとするよりも先に「相手がおかしい」と結論づけてしまう。

私は、この状態を「自己絶対化」と呼びたい。自己絶対化とは、自分の考えや価値観を絶対視し、自分を客観視できなくなる状態である。相手の立場に立って考えることができず、自分の基準だけで善悪や正誤を判断してしまう。そして、その基準を他人にも当然のように求めるようになる。

老害も幼害も、この自己絶対化が年代によって違う形で現れた姿に過ぎない。幼害は自己絶対化が未熟さゆえに表面化した状態であり、老害はそれが長年修正されず固定化した状態と言える。

近年は、「老害」という言葉そのものが便利なレッテルとして使われる場面も増えているように感じる。高齢者からの指摘が的を射ていたとしても、自分にとって耳の痛い内容であれば、「それは老害だから」と一言で切り捨ててしまう人も少なくない。しかし、それは本当に老害を批判していると言えるのだろうか。

相手の意見を内容ではなく年齢だけで否定することは、「相手の立場を理解しようとしない」「自分に都合の悪い意見を受け入れない」という点で、まさに幼害と同じ構造である。自分が気に入らない意見だからという理由で、「老害」という言葉を盾に思考停止してしまうのであれば、それは自らも自己絶対化に陥っていることになる。

本来、意見の価値は年齢では決まらない。若者にも正しい意見はあり、高齢者にも誤った意見はある。その逆もまた当然である。大切なのは「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」を判断することだ。

結局のところ、問題なのは老人であることでも若者であることでもない。自己絶対化によって、自分の価値観だけを正しいものと信じ、相手の立場や経験を理解しようとせず、それを他人へ押し付ける姿勢である。その姿勢は若い頃から存在し、修正されなければ年齢を重ねても変わらない。

だから私は、「老害」という言葉だけが独り歩きしている現状には違和感を覚える。老害とは年齢が生み出すものではなく、自己絶対化という姿勢が長年積み重なった結果である。そして、その芽は誰の中にも存在し得る。だからこそ他人を「老害」と決めつける前に、自分自身もまた自己絶対化に陥っていないか、自分の価値観を絶対視していないかを問い続けることの方が、はるかに重要なのではないだろうか。

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